修験道への道
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修験十二道具・十六道具のご紹介

山伏が所持する修験十二道具並びに十六道具を、詳しくご紹介します。

修験十二道具

頭襟 - ときん -

頭襟 行者自身が仏であるから何を頭につけなけらばならないかと言えば宝冠である。即ち大日如来の宝冠を表すのである。本来は宝形の頭襟にして、頭の頂上に着けるのが本義である。我々が常の如く着ける頭襟は黒色にして十二の溝がある頭襟であるが、これは無明(煩悩)を表すから黒色であり、十二の溝は十二因縁を表し、一つへこみがあるのは十二因縁を結集する意味である。また、左の六つの溝は六道衆生の流転を表し、右の六つの溝は六道衆生の減滅を表す。つまり、頭襟を着けることにより迷いから悟りへとの意を表しているのである。また、着ける場所は前八分と言い、顎より上、八分であり、これは不動明王の八葉蓮華を表すのである。(不動明王の蓮華の位置は覚体であるが故に頂に蓮華を収める)またこの他にも包み頭襟、又は、長頭襟といい五尺の黒色の布を頭に巻く頭襟もある。


斑蓋(桧笠) - はんがい -

斑蓋(桧笠) 雨や日差しから身をまもるだけの物では無く、行者がかぶる時は行者自身が仏であるから、天蓋と感じなければならない。形が丸いのは、金剛界の月輪を表し、頂上の三角は胎蔵界の八葉蓮華を表す事により、金胎不二の天蓋の下に仏である行者がいる事を表す。


鈴懸 - すずかけ -

鈴懸 修験行者入峰修行の法衣の全ての名であり、金胎不二の法衣である。また全ての鈴懸は上は九枚の布ででき、これは金剛界九界を表し、下の袴は八枚の布、胎蔵界八葉を表す。また袴の後ろ三つのひだは、三悪(地獄・餓鬼・畜生)前のひだ六つは六波羅蜜を表す。つまり三悪道を背中に覆い、六波羅蜜の修行に赴くという事なのです。この鈴懸は、種々ありますが二、三例を出せば、

1. 柿衣・・・・・・これは柿の渋で染めた衣で赤色無紋であります。これは母の胎内に住する姿であり、これは無欲、不苦、不楽を表している姿であり、母なる山の中で修行をし、佛果を得るという事であり、山を下る時は、黒い衣に着替え、出る慣わしになっております。これは、得た佛果は何物にも染まらぬということであります。
2. 摺衣・・・・・・これは衣に石畳を刷り込むという事で、不動明王の磐石に住し修行をする事を表しております。その色は青か黒であり、不動の青黒を表し、現在では主に、羽黒修験の行者達が着ているものであります。
3. 浄衣・・・・・・白衣の事で白色無紋の衣と言います。是は仏が光を和らげて、衆生と同ずるということを表しており、これを着ける行者は仏前で拝むだけの行者で、まだ入峰修行が終っていない行者が着る鈴懸であり、入峰修行が終った行者は着れないのであります。

この他にも上位の山伏が着る、紫衣とか懸衣等が在ります。


結袈裟 - ゆいげさ -

結袈裟 十界具足の結袈裟、或いは不動袈裟とも呼ばれております。これは九條袈裟を折りたたんで出来た袈裟で、山中で修行をするのに便利なように簡素化した修験独自の袈裟であります。十界具足の結袈裟とは、行者はすでに仏であるが故に九條袈裟であるところの九界の衆生を結んで仏である行者に懸けて十界具足の結袈裟となるのです。また修験心鑑書によれば、神変大菩薩が修行のため山中に住しておられた時、その荒行の為、見る影も無く破損していた九條袈裟を、一匹の老猿が神変大菩薩の元に現れ、その袈裟をたたんで葛の蔦で結び、神変大菩薩の肩に修めたのでありますが、この時、その行動を賛嘆して、神変大菩薩が言いました「おまえは猿の姿をしているが、心は人間と変わる所が無い、畜生と呼ばれる猿ではあるが今のように菩提心を起して善行を積むならば必ず人間界に生を受ける事が出来よう。さあ、人となれ 人となるのだ」と、教示されたのであります。この事は輪廻道を断じ、阿字門に帰入する為の比喩として味わうべき言葉であると思います。また当山派修験のみが用いる袈裟に磨紫金袈裟というものがありますが、これは九條袈裟を折りたたんで、脇に二本の紐を結んでいるのですが、これは神変大菩薩が修行中にお母さんが現れ、臍の緒を懸けてくれたという説であります。つまり、母の胎内に居る様にこの袈裟を懸けれは諸の災いを防ぐ事が出来るという事なのです。


法螺 - ほら -

法螺 釈迦如来の説法でありこの音を聞くものは煩悩を滅し悟りを得るのである。また法螺の音は獅子吼とも呼ばれ、百獣の王の声であり全ての動物を服従せしめる威力を持つということから、これを仏の説法であるとするのである。吹き方は立螺秘巻を参考されたし。

 >> 【音声】山伏の吹く法螺貝の音をお聞きいただけます。(別ウインドウが表示されます)


最多角念珠 - いらたかねんじゅ -

最多角念珠 最(いら)とは、最上(これより上は無し)であり、多(た)は煩悩が多い事、角(か)は煩悩を打ち砕くという意味であり、その形は智剣を表すのである。また念珠の念は、念念続き起される煩悩という意味であり、念珠の珠とは、祈念即法界というように念ずる事により法界に通ずるという意味であります。つまり、念珠とは煩悩即菩提を表しているのです。また母珠を以て仏界とし、緒止めを以て衆生界とするのです。


錫杖(声杖・鳴杖) - しゃくじょう -

錫杖 一法界の総体であり衆生が悟りの道に赴く所の智慧の杖であります。またこの錫杖には、三種ありその功徳を説いています。
 一. 声聞の錫杖‐二股四環・苦・集・滅・道の四諦を表す。
 二. 縁覚の錫杖‐四股十二環・十二因縁を表す。
 三. 菩薩の錫杖‐二股六環・檀・戒・忍・進・禅・慧の六波羅蜜を表す。
当山派の行者は、菩薩の錫杖を用い、これを振ることにより、六道輪廻の眠りを覚まし、一仏界に帰入する(仏の元へ帰る)としているのです。


笈 - おい -

笈 修験行者が入峰の際用いる法具等を入れる箱である。先達は、不動尊の八種の法具を納める。教理的には一切衆生の悲母の体相を表す。笈には二つの形式がある。正先達が用いるのを縁笈といい、新客が用いるのを横笈という。縁笈は長さ一尺八寸【十八界】横一尺二寸【十二因縁】で笈板の周囲を皮でふさぎ縦一尺三寸【胎蔵界十三大院】横九寸【金剛会九会】の背板をあてる。笈は峰中十界修行に於いて行者【胎児】を抱く母の母胎で、入峰者が笈を背負う事は母胎に住する事を示すといわれる。横笈は人の皮膚、板は骨、箱の中の五穀は肉、笈の紐は血管を示す、更に笈に被せる斑蓋は母胎の衣那で、貝の緒はへその緒であり、これで母子を結ぶといわれる。


肩箱 - かたばこ -

笈の上に乗せる木の箱にして肩に付ける故に、肩箱というのである。長さ一尺八寸、行者の十八界を表示し、横六寸は、六大を表し高さ五寸は、金剛会の五智を表し、白色の索は衆生バン字の脈水自性不染の蓮糸に像る上を蓮葉に絡む事は即ち蓮華合掌の形にして染浄不二色心実相を表したものであります。また、箱の中には峰中勧請に用いる道具等を入れるのである。肩箱は一切衆生の慈父の体相即ち金剛会バン字の形にして修験法門の秘函である。金剛会智門の中、真言秘密三摩地の法文に接在することを表す。肩箱とは定慧不二、二バン和合の実体で虚心合掌の形である。また肩箱を担って入峰修行をする行者は、一切の諸法を修せずしてこれを修す。


金剛杖 - こんごうづえ -

金剛杖 修行に用いる杖であると同時に法界塔婆である。即ち、金剛杖は大日如来を表すと共に行者の法身を表すものであるからこの杖を持つ事は我即大日を示しているのであります。またこの杖の長さは決まりが無く、行者の身長に合わせて作るのであります。この杖には三種の杖があり、新客の持つ杖を擔杖(閼伽水などをこの杖で担ぐ)度衆が持つ金剛杖・正先達が持つ桧杖(火の木)火は智慧の火である。智慧の木を持つのが正先達(材料は桧)などがあるのです。また金剛杖は歩行を助けて転倒を防ぐ物であり、力弱き者の支えでもあるのです。この意味からして、仏道を求める者に対する助けの杖であり、修行に励む行者の心の支えとなる智慧の杖でもあるのです。


引敷 - ひっしき -

引敷 入峰修行の際の座具であるところの腰に当てる敷き皮のことである。またこの引敷は何の動物の物であっても獅子の毛皮であると観念するのであります。何故なら畜類は無明に例えられ、その畜類の王の上に座すという事で行者は仏であるから凡聖不二(煩悩即菩提)の極地を表しているのであります。また引敷の引くとは、衆生を法界に引導するという意味も含まれております。修験でいう所の獅子とは、鹿の事であり、これは縁覚の乗り物だからです。


脚半 - きゃはん -

脚半には三種の別があります。まず春の峯(胎蔵界)である順の峯に用いる脚半は筒脚半と言い、その形は四角で地大を表しているのです。五大を分けれは、地大は阿字であり、胎蔵界大日の種子となるのです。そしていつの頃からかは分かりませんが今の脚半は白色になってしまっておりますが、本来脚半は黒色であるのです。何故に黒色かと言えば、五大を分ければ風大の色は黒色であります。即ち風輪ウン字に住し大空位(悟りの世)を歩くという意味で脚半は黒色になるのであります。そして結ぶ紐は上方は上結びにして上求菩提、下方は下結びにして下化衆生をあらわすのです。脚半を着ける時には順の峯であるから、順にこれを巻いて着けるのであります。次に秋の峯(金剛界)である逆の峯に用いられる黒色脚半は剣先脚半と言いその形は剣先の形で表しているのです。これは金剛界の智門を表し八角の智剣を八幅輪宝として八邪の無明を断じて八正道にいたらしむという事なのです。この時の脚半の巻き方は、逆の峯であるからして今度は逆に脚半を巻いて着けるという事が慣わしとなっているのであります。次に、夏の峯(不二の峰)の時の脚半は金剛界の脚半を着け、胎蔵界の結び方をするのです。つまり金剛界の剣先脚半を順に巻いて着けるのです。今ではほとんどの行者がこの不二の脚半を着けているのです。

修験十六道具

上記十二道具に下記の4つを加えたものが、修験十六道具となります。

桧扇 - ひせん -

桧扇 外儀ではこの扇で護摩の火を扇ぎその火力を増すのであるが、実を取れば自性の智火に解脱の慧風(智慧)を加え、煩悩に見立てた薪を焼き尽くす事を以て内観とするのです。また山伏が峯入りする時の正装である持ち物の一つであり、願文などを読む時などは、扇を腰に差し、その扇の上に包み紙や念珠等を掛けるのであります。


柴打 - しばうち -

理源大師が宇多天皇より頂いた刀で大峰山中で護摩を焚く時その護摩の木を打ち切った事により、柴打というのです。また新客も刀を持つ事がありますが、これは柴打とは呼ばず、小木取りと呼ばれております。またこの他にも宝剣という刀があり、これは柴燈護摩などの時に修する悪魔降伏の作法に用いる剣で、不動明王の利剣と感じ修する刀であります。


走縄 - はしりなわ -

行者入峰の際の補助的な物であるが、今は修行者の無明を縛する不動明王の剣索の意とされております。新客は十六尺、度衆は二十一尺、先達は三十七尺である。これを左の腰に束ねてぶら下げるのであります。


草鞋(八目草鞋) - そうかい -

今ではほとんど地下足袋ですが、本来行者の履物は八目草鞋といい草鞋の周囲に八つの結び目が有る草鞋を履いて入峰をするのです。これは行者は八葉蓮華の台に乗って修行に赴くという事を表しているのであります。 このように修験装束を身に付け入峰をすると言う事は行者即仏という事であり、大峰山という曼荼羅世界の中に仏として加わるということであります。

その他

このほかにも修験行者が山に入る際に身に付けるものに、「貝の緒(かいのお)」があります。

貝の緒 - かいのお -

修験者が峰入りの際に腰の周囲に巻く二本の赤、又は黄色の長い麻のより綱。法螺と併せてその付属物として説明されることが多いですが、本来法螺と関係無く、山中の岩場などを登る際、ザイル代わりとして用いられていました。「修練秘要義」では腰の右に巻く十六尺の緒を貝の緒とし、左に巻く二十一尺の緒を曳周【ひきまわし】と呼んだこの両者はそれぞれに右緒【貝の緒】金剛会・智・父・陽・慧・十六大菩薩・新客 左緒【ひきまわし】胎蔵界・理・母・陰・定・二十一尊・度衆 金胎一致・不二・子・三十七尊・先達を示している。その故にこの両緒を結ぶことによって修験者が金胎一致、理智不二、定慧不二となり、成仏しうること、及び父母を陰陽和合の結果、赤子として誕生する事を表すとしている。

貝の緒は本来修験十二道具並十六道具には含まれないが、現在では行者入峰の際常用としているので、ここに記す。


以上のように山伏が所持する物には悉く教義が記されており、あたかも護身法の被甲護身の如く如来の大慈大悲の甲冑をよろうが如くに行者は教法そのものを身に纏い、内外の魔障を遠離すると共に少しの懈怠も許されぬのであります。