高尾山と天狗様
高尾山薬王院 > 薬王院について > 高尾山薬王院の成り立ち -其の四-

高尾山と天狗様

高尾山薬王院の成り立ち -其の四-

高尾山紀州家文書

高尾山古文書の中に、紀州徳川家から寄せられた書状が相当数存在する。これらは徳川幕府第八代将軍紀伊大納言吉宗がその職に就いた享保元年(一七一六)~延享二年(一七四五)を機に交渉が始まっている。徳川幕府の治世も爛熟期を迎え、町人文化の発展、経済活動の活性化と目まぐるしい難問山積の中で、享保の改革という政治、経済改革を推し進めるに当り高尾山御本尊飯縄大権現の加護が期待され、しばしば「八千枚護摩」の大法を依頼され、大願を懸けているのである。
元文二年(一七三七)五月には、竹姫から浮月院比丘尼が遣わされ、「葵紋緞子水引」が寄進され、翌年には、記録の上では初めて江戸の町に、飯縄大権現の出開帳が行われている。更に元文五年(一七四〇)十二月、将軍家北の政所一位大夫人から「葵紋白地幸菱戸帳」「葵紋紺地綿銀杏葉牡丹織水引」が奉納されている。降って、宝暦三年(一七五三)御本社飯縄権現堂の拝殿、弊殿が四天王流の棟梁、須永織江源信安によって再建されており、宝暦五年二月には、紀伊徳川家宗直より「葵紋紺地金襴戸帳」「葵紋紺地綿水引」「葵紋提灯」などが奉納されている。
高尾山中興十五世賢秀・十六世秀憲・十七世秀興の代の事である。先の富士講における庶民信仰と紀州徳川家の篤い外護といい、江戸時代中期の高尾山は目覚ましい発展を遂げた。
安永年間に至って書院、庫裏が造営され、寛政年間には山内塔頭の浄土院が建立されて、同三年(一七九一)三月十五日飯縄大権現は、江戸湯島天神で六十日間に及ぶ出開帳を催している。八年には、唐銅寶筐印塔(ほうきょういんとう)が荏原郡甲賀村飯田氏によって奉納され、十年には、当山十八世秀神の代となり、御本堂、奥之院、黒門、山麓の高尾山一之華表、御本社前の高尾山二之華表などが建立されている。
文化二年(一八〇五)江戸赤坂の油屋清八の寄進によって権現堂が再建され、この時に現在の権現造りの結構が完成されたものと推察される。清八は文化九年にも北条氏康の唐堂五重塔を再建し、自宅の赤坂から内藤新宿を通って甲州街道を下る髙尾参拝の道筋に一里塚を建て、江戸町民の参拝の道標とした。油屋を名乗っているが、当時屈指の豪商で、富士信仰に篤い人だったのか、身禄行者の職に肖(あやか)ってそう名乗ったとの言い伝えが残っている。
幕末期は、火災、台風に相次いで見舞われ、その都度出開帳を催し広く江戸町民の浄財を仰いで再建の事を図っている。高尾山は、多摩、相模の平野に面していきなり立ち上がった山塊を成しているために風雨の災害を受ける事が多い。その都度復興に多くの経費を費やす事となるが、北条氏康の「薬師堂修理のため…」の寺領寄進は、これを援助するためのものである。忘れた頃にやって来る天災の備えとして、建築用材確保の為の山林経営は高尾山の護持の上で必須の作業(ざごう)であった。これを支えて来たのが心願成就御礼の「お杉苗奉納」の御信助である。
奉納杉苗の事と言えば、特筆すべきは「江川杉」の事がある。高尾山頂から北西に走る山稜一帯に樹齢百三十年を越える植栽林が広がる。これが「江川杉」と呼ばれるのであるが、天領伊豆韮山代官、韮山反射炉、江川屋敷等で有名な「江川太郎左衛門」が、元禄十三年(一七〇〇)頃、天領武州多摩秋山郷支配の代官を勤めている。江戸幕府の直参として銃砲火薬類の製造管理を受け持つ江川家は、この秋川の地に火薬製造の技術を伝え、その伝統が今日に継承されて、「株式会社細谷火工」と言う大手の火薬製造会社に発展し、今日、両国の花火大会を彩る二者の内の一翼を担っている。会長の細谷政夫氏は高尾山に寄せる信仰篤く、「秋川栄山講」を組織して、毎年節分会歳男を勤めておられる。
代々「太郎左衛門」を襲名して、天保年間相模の国小山村を支配した代官江川氏は、高尾山薬王院末寺、天縛山蓮乗院惣代、豪農原清兵衛光保から天保十一年(一八四〇)願い出のあった、小山地先の相模野二百町歩開発の事を、天保十四年(一八四三)九月に許可。近郷近在の百姓の二、三男を集め、入植農民とし、五組四十九戸を建設して、農具その他一切を与え、開拓を進めた。この開拓地の鎮守として高尾山飯縄大権現が勧請され、後に明治の神仏分離令によって、高尾山麓の地主神「氷川神社」が祀られるようになったと伝えられる。今日の相模原市氷川町の「氷川神社」がこれである。
開墾地は、安政三年(一八五六)検地を受け、清兵衛新田四百二十石余が村髙に加えられた。この事業の完成を感謝して、開墾奉行代官江川太郎左衛門は、高尾山に大量の杉苗奉納をした。これが、先の「江川杉」で、今日では、参道「大杉原」の樹齢七、八百年の神杉に次ぐ大木に育っている。


明治維新の嵐

江戸幕府による大政奉還、錦の御旗の関東制圧をもって徳川三百年、鎌倉幕府以来六百七十余年の武家支配が終わりを告げた。この事は直ちに神人天皇の直接統治という神政絶対主義国家の樹立を内容とする宗教改革を推し進める事となった。その第一が「神仏分離令」である。
この機運をいち早く察知した当時の住職二十三世髙尾秀融は、明治三年八月、山麓不動院にあった「一之鳥居」、山上御本社前にあった「二之鳥居」を一夜にして押し倒し、その跡にそれぞれ一対の石灯篭を建立している。神仏分離、廃仏棄釈の嵐に揉まれて、多くの山岳霊場寺院が神社に姿を変えたりしたその後の経過を見るに、同時発令された、「修験道廃止」の事もあって、山内を二分するような騒動に決着を付ける意味でも「一夜にして…」の事は想像に難く無いのである。
更に、明治四年には、寺領地七百二十余町歩の内、境内約十町歩ばかりを残して上地。帝室御料林とされ、現在は国有林となって林野庁の管理下にある。
そして明治十二年の「宗教団体令」によって、中興以来、京都醍醐山無量寿院の末寺として来たところを、教学相承の流れを汲んで、智積院の末寺に転じている。行法作法を厳しく重んずる醍醐山であるが、神仏分離、修験道廃止の混乱の覚めやらぬ時期の事、近代化の風潮の中で、学問、論議の流れを汲む智山に就いたのも頷く事が出来る。
多摩地方には自由民権運動の盛んな頃、明治十九年には、台風による豪雨のため護摩堂薬師堂が崩壊し、翌々年深川で五十日間の出開帳を催し、再建の資としている。また、この明治二十一年は、現在の国道二十号線、新甲州街道が開通した。
以後、近代国家建設の大業が推し進められる中で、高尾山薬王院は密教寺院本来の伝統を守りながら、大衆の平等抜済、諸願成就の祈願道場として、大衆と共に刻々の歩みを重ねて来た。なおこの間の経過については本書歴史年表を参照されたい。
が、高尾山御本堂外陣正面に掲げられた彰仁親王御宸筆の、韓国釜山信徒中奉納による「高尾山」の扁額を拝するにつけ、先の大戦を含む隣国との間の不幸な歴史が残念でならない。
ここに改めて仏教本来の平等々々の観念に立って、生命の尊厳、世界平和を祈念しつつ擱筆する。なお参考資料とした数々の書物を残してくれた先賢先徳、今日まで御指導下さった師匠御山主様を初め歴代先師、法縁諸大徳、同行諸師に深々の感謝をもって本稿を捧げる。

(了) 

「高尾山と天狗様」へ戻る >>

薬王院の詳しい成り立ち

こちらから高尾山と薬王院の、さらに詳しい成り立ちをお読みいただけます。